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 大正11年12月10日、M・フレスノン神父が飽の浦教会最初の主任司祭として就任した。フレスノン師が初代教会の宿老たちを相談相手に在職5年間の間に多岐に亘る建設事業を次々と実現し、その遺産は永く継承されてきた。反面、聖職者として自身の身辺のことについては、就任後1年有余の月日を司祭館もなく香部屋を利用しておられた。寝食の不自由を差し置いてでも保育所建設の為の敷地確保に着眼されたのである。

 

 大正13年4月、司祭館が完成した。東と南面に廻り廊下を配した洋館風のしゃれた建物であったが昭和20年7月30日、アメリカ機の直撃弾を受けて消失した。聖堂に落成後、島内師の司牧が続けられる間に下崎友作氏、永渕辰一氏、フレスノン師の時に村岡金三氏が伝道師として迎えられた。当初は、伝道師の住宅もないままに、買収前の志賀家の管理人居所を使用していた。

 

 同年11月、伝道館いわゆる「けいこ部屋」と愛称された部屋が建てられた。この伝道館も司祭館と共に焼失した。大正14年伝道師住宅が竣工された。この建物は、村岡伝道師の住居として信徒の相談、諸秘跡の受付や書籍の販売などもなされ、現在の司祭館の敷地となっている。

 

 大正15年4月1日保育所が新築落成した。昭和2年は邦人司教として初めての早坂久之助司教が誕生した記念すべき年である。この春、保育所では初の卒園者を送り出すことが出来た。

 

 パリ外国宣教会の会員であったフレスノン師は、指令のもとに昭和3年12月2日、残留していたハルブ(黒崎)、ボネ(平戸)神父たちと一緒に飽の浦教会を去られ新任地の久留米へ赴任された。

師が在職5年余りの歳月を数々の建設事業に傾けて司牧の礎を大成し、幼老を問わず全ての信徒に人間愛を印象づけられたのも、ひとえに、故国を捨てて他国に骨を埋めんとする献心な精神であったといえよう。

 

 翌日、3日に大崎八重師が就任された。年毎に増える移住信徒によって聖堂の収容も極限に達し、新聖堂建設のための資金が別途に徴収されるようになった。戸数も増えたが子供も多かった。教会では伝道館と保育所とに分かれて公教要理を習う児童たちの声が交互にこだました。元々、体が丈夫でなかった師はその病身に鞭打ちながら聖務に励み、信徒の司牧をはたされていたが、昭和6年10月6日、司祭館の1室で帰天された。師の遺体は司祭館の最も聖堂に近い部屋に安置され、信徒の弔問を受けられた。在職2年10ケ月であった。なお、前年の昭和5年4月24日、飽の浦天主堂の創設者ドミニコ・島内要助師も中町教会を最後に帰天されている。11月29日、フランシスコ・井口市太郎師が堂崎教会から赴任された。就任後すぐに婦人会を結成した。それは、長い間に根強く培われてきた婦人達の努力がすでに組織化されるまでに育っていたからである。参考までに当初の会則11条の大略を見てみよう。

 3条、会員は既婚の婦人とする。

 8条、会費は月20銭とする。

 10条、事業、修養会、講演会、祈祷会を行う。

    告白、聖体拝領を励行すること。

    集会毎にコンタス(ロザリオのこと)1本を唱えること。

    幼者を保護指導し、老者を敬うこと。

    慈善行為の励行。会員の病災、死亡、極貧者のためミサを捧げる。

    会員は自己または共同して勤勉貯蓄を実行すること。

    聖堂建築積立て1人5銭を確実に実行すること。

附則、 本会の名誉に関する悪行為をなしたる者は、反省を促すも改俊の実なきときは、役員会の決

             議により除名することが出来る。


 当時の信者は信仰を守ることでは熱心だったとは言え、なかなか厳しいものである。婦人会の世話役(3役)たちは日曜のミサ後、伝道館で話し合いを進め教会全域にわたる婦人会活動の推進力になった。